2013年8月12日月曜日

霊の名前(4)

急なざわめきが外から聞こえた。雨が降り出したのだ。瞬く間に豪雨となり,そのしぶきが外の暗がりを白濁させた。彼は事務室の扉に向かって叫んだ。「フーラークース! フーラークース!」 しかし,誰も来ないとみると,何やらぶつぶついいながら佐海のほうを向いた。

「このオムニス資料がどのようにQ資料とP資料とを結びつけると二人が考えていたか,そこが重要なのですが,門外漢の私にはただ推測するほかありません。おそらく,そこには天地創造から救世主の到来に至るまでの物語が非常に詳細に記され,その前半がP資料として『創世記』に用いられ,残余の部分がQ資料の救世主としてのイエス像に活用されたのでしょう。もっとも,私の想定は間違っているかもしれません。繰り返すようですが,その原稿を読むしかないのです……。

「いずれにせよ二人がこの問題に注ぐ情熱は並外れたものでした。日々の祈りと短い食事のほかはすべてオムニス資料の追求に捧げられておりました。夜を徹して討論することもしばしばでした。ウージェーヌ師はこどもの頃から柔術を熱心に学び,フランス留学中にはかの地の有力選手から勝利を奪ったほどの技量の持ち主で,人並みはずれた活力を持った方でした。そのような人物と日がな一日ともに過ごすのは,フレール・アントワーヌにとって相当な重荷であったに違いありません。おそらくそのときから彼の衰弱が徐々にはじまっていたのではないかと私は考えております」

事務室の扉が開き,あの奇怪な姿の男が姿を現したとき,佐海は恐怖のあまり飛び上がりそうになった。しかし,マルタン師の関心は天井に向けられていた。「フラクス! バケツを持ってきてくれんかね! この雨ではまた雨漏りしそうだ」 フラクスと呼ばれた男は小さく唸ると廊下へと駆け出した。

「あの男はいわばフレール・アントワーヌの兄弟子でして……もともと名の知れた柔術家で,それが縁でウージェーヌ師と知り合い,信仰の道に入ることとなったのですが,柔道の試合中に不幸な事故がありましてな……かわいそうな男です」

フラクスはブリキのバケツとぞうきんを持って戻ってきた。マルタン師はフラクスに指図して設置させると,「お客様のための料理の支度を頼むよ」と言って去らせた。そして佐海のほうを向き「今日はどうか当地の名物である鶏料理を召し上がってください。ご飯のおかずにぴったりで何合炊いても追っ付かないほどなのです!」と喜ばしげに告げたのだが,その言葉はほとんど佐海の耳には入らなかった。彼はフラクスが去り際に自分をちらと見たときの憎しみと狂気に満ちた目にすっかり気持ちを掻き乱されていたのである。この修道院は何かが異常だった。最初の水滴が天井から滴り落ち,バケツの底で侘しい音を立てた。

「ウージェーヌ師が」とマルタン師は再び話しはじめた。「脳溢血で天に召されたのは,四ヶ月ほど前のことです。あまりにも,あまりにも唐突な出来事でした。葬儀の準備,人事の問題,教区との連絡……次から次へとやるべきことが沸き上がりました。いつもの静けさを取り戻すのに,ひと月はかかったのです。私どもはみな忙殺され,師であり友人でもあり,そしておそらく父でもあった存在を失ったフレール・アントワーヌを気遣う暇などありませんでした。私どもは彼の変調に気付いてやることができなかったのです。これは何とも悔やまれることです。彼は次第に奇怪な行動を取るようになりました。裸に近い姿で歩き周り,大声でヘブライ語を読み上げ,食事を摂ることを拒否しました。彼の頭の中は,ウージェーヌ師と進めていた研究で一杯のようでした。常にQ資料,P資料について何やら口走り,興奮したり,震えたり,おののいたりしていました。また彼はオムニス資料に異常な執着を抱いていました。彼はそれが世界のどこかに隠されていると信じており,自分だけがその在処を探し当てることができると主張しました。奇怪な反ユダヤ思想がいつの間にか彼の頭に入り込み,O資料はユダヤ人が秘密に管理している,と荒唐無稽な陰謀論を捲し立てることもありました。おそらくこのような思い込みと関係あるのでしょう,急にアメリカに行くと言い出し,荷造りを始めたこともありました。彼はアメリカの巨大な博物館の倉庫にO資料そのもの,あるいはそれに関係する資料が眠っていることを突き止めたといって,むちゃくちゃな格好でこの修道院から飛び出したのでした。幸いにも,私ども私はこの無謀な試みを阻止することができました。ですが,その夜から,恐ろしい発作が彼を襲うようになったのです。それはひとたび起こるや否や,長い時間彼を苛みます,苦しめます。はじめは三時間ほどでしたが,発作のたびに持続時間は長くなりました。前回の発作はそれは恐ろしいものでした。まるまる一週間も続き,その間ずっと彼は奇声を発しながらのたうち回るのです。食事も,睡眠もなく! 彼はすっかり衰弱してしまいました! お医者さまはおっしゃいました。もし彼の体力が回復しないうちに,同じ規模の発作が起こったならば,それは間違いなく致命的なものになるだろう,と」

滝のような雨が,山の修道院に降り注いでいた。床に置かれたバケツの水位がじわじわと上昇しているのが分かるほどだった。凄まじい雨音にもかかわらず,常軌を逸した物語を語るマルタン師の声は佐海の耳に食い込んできた。彼は思わず尋ねた。

「マルタン師,ぼくは知りたいのですが,どうして椿と,そしてウージェーヌ師は,そのオムニス資料にそれほど夢中になったのでしょうか。その資料に一体どんな価値があるのでしょうか」

「ああ,私もそのことについては幾度も考えました。結局は本人たちに聞くほかないのですが。とはいえ,一度彼らが議論している場に私も少しだけ同席したことがあります。ほとんど分からなかったのですが,二人はこれを信仰上の問題であると考えているようでした。聖書文献学とは,しばしば信仰に敵対するものと理解されることがあります。なぜなら,それは聖書というテキストの絶対性を危うくするからです。もしかしたら二人はこのような見方を退けるべく,聖書のテキストを徹底的に分析・分解することでより高度な信仰を打ち立てようとしていたのではないか,などと私は夢想することもあります」

「信仰ですか……」 佐海は呟き,やがて意を決して,ここに来たときから抱いていた疑問を口に出した。「ぼくの知る椿は,およそ信仰とは縁のない男でした。いや,むしろ信仰そのものを徹底的に批判し,否定していました。ぼくはどうしても分からないのです。なぜ彼がキリストの信仰を受け入れたのかが」

重苦しい沈黙の後マルタン師は答えた。「人によっては神を否定し続けることと,神を信じ続けることは同じことなのです……わたしに申し上げられるのはそれだけです。……ところで,次にフレール・アントワーヌとお会いするときに,ぜひとも佐海さんに……折り入ってお願いが……つまり,私どもが知っているのは,彼が非常な資産家ということでして……当修道院はなかなか,その,働きの点では困難に直面していると申しますか……どうか,お口添えお願いしたのですが……もし,もしですよ,万が一の場合に遺産を……」

一筋の異様な悲鳴が,豪雨と薄暮を貫いた。怒鳴り声,そしてけたたましい足音がして,事務室の扉が開いた。椿の僧坊で身の回りの世話をしていた修道士が険しい顔つきでマルタン師に近寄り耳打ちした。マルタン師はさっと青ざめ,佐海にひとこと断ると大急ぎで出て行った。

ああ,もしかしたら……。ひとり事務室に取り残された佐海は胸騒ぎを感じた。振り下ろされる鞭のように雨がザッ……ザッ……と修道院に襲いかかり,いやおうなく彼の不安を煽った。

と,そのとき,窓が恐ろしい音とともに開いた。猛烈な雨がうなりを上げて吹き込み,黒い影が窓の向こうに表れた。「有効じゃ! これが神の言葉を冒涜したヤツらの末路だ!」 ずぶぬれのフラクスが室内に身を乗り出し,目を剥いて叫んだ。佐海は激しい風雨をまともに浴び,ソファから床にへたり込んだ。

「ウージェーヌめ,神を冒涜しおった! 椿め! とんだ反則野郎じゃ! なにがQ資料だ,なにがP資料だ! 神聖なる神のみ言葉をずたずたに汚す悪霊どもめ! 有効を喰らうがいい! A資料だのF資料だの,戯言は背負い投げじゃ!」

「フラクス!」 マルタン師が飛び込んでくる。「フラクス! なんてことを!」 狂人は威嚇の叫びとともに姿を消した。甲高い笑い声が遠ざかっていく。マルタン師は窓を閉めながら,佐海に椿の容態の急変を告げた。

佐海はマルタン師とともに僧坊に駆け込んだ。椿は全身を痙攣させ,ベッドの上でのたうち回っている。どこにそんな力が残されていたのか。まことに悪霊ではないか……恐ろしい考えに佐海は捉われた。やがて病人は横たわりながら飛び跳ねはじめた。まるでベッドがトランポリンになったかのように。身をよじり,泡を口からまき散らしていた。

「おお,おお,主よ」とマルタン師が十字を切る。

世話役の修道士が説明する。「私が目を離した隙に,フラクスが外から窓を開け,覗き込んでいたのです。あの男は,フレール・アントワーヌの目の前にこれを差し出していたのです」 修道士は佐海に三本の鶏の羽を見せた。

凄まじい雷鳴が鳴り響いた。そしてほとんど遅れずに稲光。修道院が打ちのめされて崩壊したかのようだった。

椿は飛び上がりながら,苦悶の叫びを上げる。そして,その絶叫は,次第にひとつの形となる。

「バ……バ……」

修道院の外で狂った高笑いが響き渡った。

「バ……バ……バ……」

再び天地を揺るがす稲妻。

「バ……バ……バケラッタ! バケラッタ! バケラッタ!」

……生ける神の手に落つるは恐ろしきかな(ヘブル書第十章三十一節)。