2013年12月24日火曜日

12月24日 クリスマス・イブ

君がサンタクロースだとして,クリスマス・イブの夜に世界中の子どもたちにプレゼントをあげたいと願っているとしよう。

どうしたら,それは実現できるだろうか。

まず1人では無理だ。世界中に子どもがどれだけいるか知らないが,たった一晩の間にすべての子どもにプレゼントをあげるなんて不可能だ。

しかも,ただ単にあげればいいってもんじゃないのだ。

2013年8月12日月曜日

霊の名前(4)

急なざわめきが外から聞こえた。雨が降り出したのだ。瞬く間に豪雨となり,そのしぶきが外の暗がりを白濁させた。彼は事務室の扉に向かって叫んだ。「フーラークース! フーラークース!」 しかし,誰も来ないとみると,何やらぶつぶついいながら佐海のほうを向いた。

「このオムニス資料がどのようにQ資料とP資料とを結びつけると二人が考えていたか,そこが重要なのですが,門外漢の私にはただ推測するほかありません。おそらく,そこには天地創造から救世主の到来に至るまでの物語が非常に詳細に記され,その前半がP資料として『創世記』に用いられ,残余の部分がQ資料の救世主としてのイエス像に活用されたのでしょう。もっとも,私の想定は間違っているかもしれません。繰り返すようですが,その原稿を読むしかないのです……。

「いずれにせよ二人がこの問題に注ぐ情熱は並外れたものでした。日々の祈りと短い食事のほかはすべてオムニス資料の追求に捧げられておりました。夜を徹して討論することもしばしばでした。ウージェーヌ師はこどもの頃から柔術を熱心に学び,フランス留学中にはかの地の有力選手から勝利を奪ったほどの技量の持ち主で,人並みはずれた活力を持った方でした。そのような人物と日がな一日ともに過ごすのは,フレール・アントワーヌにとって相当な重荷であったに違いありません。おそらくそのときから彼の衰弱が徐々にはじまっていたのではないかと私は考えております」

事務室の扉が開き,あの奇怪な姿の男が姿を現したとき,佐海は恐怖のあまり飛び上がりそうになった。しかし,マルタン師の関心は天井に向けられていた。「フラクス! バケツを持ってきてくれんかね! この雨ではまた雨漏りしそうだ」 フラクスと呼ばれた男は小さく唸ると廊下へと駆け出した。

「あの男はいわばフレール・アントワーヌの兄弟子でして……もともと名の知れた柔術家で,それが縁でウージェーヌ師と知り合い,信仰の道に入ることとなったのですが,柔道の試合中に不幸な事故がありましてな……かわいそうな男です」

フラクスはブリキのバケツとぞうきんを持って戻ってきた。マルタン師はフラクスに指図して設置させると,「お客様のための料理の支度を頼むよ」と言って去らせた。そして佐海のほうを向き「今日はどうか当地の名物である鶏料理を召し上がってください。ご飯のおかずにぴったりで何合炊いても追っ付かないほどなのです!」と喜ばしげに告げたのだが,その言葉はほとんど佐海の耳には入らなかった。彼はフラクスが去り際に自分をちらと見たときの憎しみと狂気に満ちた目にすっかり気持ちを掻き乱されていたのである。この修道院は何かが異常だった。最初の水滴が天井から滴り落ち,バケツの底で侘しい音を立てた。

「ウージェーヌ師が」とマルタン師は再び話しはじめた。「脳溢血で天に召されたのは,四ヶ月ほど前のことです。あまりにも,あまりにも唐突な出来事でした。葬儀の準備,人事の問題,教区との連絡……次から次へとやるべきことが沸き上がりました。いつもの静けさを取り戻すのに,ひと月はかかったのです。私どもはみな忙殺され,師であり友人でもあり,そしておそらく父でもあった存在を失ったフレール・アントワーヌを気遣う暇などありませんでした。私どもは彼の変調に気付いてやることができなかったのです。これは何とも悔やまれることです。彼は次第に奇怪な行動を取るようになりました。裸に近い姿で歩き周り,大声でヘブライ語を読み上げ,食事を摂ることを拒否しました。彼の頭の中は,ウージェーヌ師と進めていた研究で一杯のようでした。常にQ資料,P資料について何やら口走り,興奮したり,震えたり,おののいたりしていました。また彼はオムニス資料に異常な執着を抱いていました。彼はそれが世界のどこかに隠されていると信じており,自分だけがその在処を探し当てることができると主張しました。奇怪な反ユダヤ思想がいつの間にか彼の頭に入り込み,O資料はユダヤ人が秘密に管理している,と荒唐無稽な陰謀論を捲し立てることもありました。おそらくこのような思い込みと関係あるのでしょう,急にアメリカに行くと言い出し,荷造りを始めたこともありました。彼はアメリカの巨大な博物館の倉庫にO資料そのもの,あるいはそれに関係する資料が眠っていることを突き止めたといって,むちゃくちゃな格好でこの修道院から飛び出したのでした。幸いにも,私ども私はこの無謀な試みを阻止することができました。ですが,その夜から,恐ろしい発作が彼を襲うようになったのです。それはひとたび起こるや否や,長い時間彼を苛みます,苦しめます。はじめは三時間ほどでしたが,発作のたびに持続時間は長くなりました。前回の発作はそれは恐ろしいものでした。まるまる一週間も続き,その間ずっと彼は奇声を発しながらのたうち回るのです。食事も,睡眠もなく! 彼はすっかり衰弱してしまいました! お医者さまはおっしゃいました。もし彼の体力が回復しないうちに,同じ規模の発作が起こったならば,それは間違いなく致命的なものになるだろう,と」

滝のような雨が,山の修道院に降り注いでいた。床に置かれたバケツの水位がじわじわと上昇しているのが分かるほどだった。凄まじい雨音にもかかわらず,常軌を逸した物語を語るマルタン師の声は佐海の耳に食い込んできた。彼は思わず尋ねた。

「マルタン師,ぼくは知りたいのですが,どうして椿と,そしてウージェーヌ師は,そのオムニス資料にそれほど夢中になったのでしょうか。その資料に一体どんな価値があるのでしょうか」

「ああ,私もそのことについては幾度も考えました。結局は本人たちに聞くほかないのですが。とはいえ,一度彼らが議論している場に私も少しだけ同席したことがあります。ほとんど分からなかったのですが,二人はこれを信仰上の問題であると考えているようでした。聖書文献学とは,しばしば信仰に敵対するものと理解されることがあります。なぜなら,それは聖書というテキストの絶対性を危うくするからです。もしかしたら二人はこのような見方を退けるべく,聖書のテキストを徹底的に分析・分解することでより高度な信仰を打ち立てようとしていたのではないか,などと私は夢想することもあります」

「信仰ですか……」 佐海は呟き,やがて意を決して,ここに来たときから抱いていた疑問を口に出した。「ぼくの知る椿は,およそ信仰とは縁のない男でした。いや,むしろ信仰そのものを徹底的に批判し,否定していました。ぼくはどうしても分からないのです。なぜ彼がキリストの信仰を受け入れたのかが」

重苦しい沈黙の後マルタン師は答えた。「人によっては神を否定し続けることと,神を信じ続けることは同じことなのです……わたしに申し上げられるのはそれだけです。……ところで,次にフレール・アントワーヌとお会いするときに,ぜひとも佐海さんに……折り入ってお願いが……つまり,私どもが知っているのは,彼が非常な資産家ということでして……当修道院はなかなか,その,働きの点では困難に直面していると申しますか……どうか,お口添えお願いしたのですが……もし,もしですよ,万が一の場合に遺産を……」

一筋の異様な悲鳴が,豪雨と薄暮を貫いた。怒鳴り声,そしてけたたましい足音がして,事務室の扉が開いた。椿の僧坊で身の回りの世話をしていた修道士が険しい顔つきでマルタン師に近寄り耳打ちした。マルタン師はさっと青ざめ,佐海にひとこと断ると大急ぎで出て行った。

ああ,もしかしたら……。ひとり事務室に取り残された佐海は胸騒ぎを感じた。振り下ろされる鞭のように雨がザッ……ザッ……と修道院に襲いかかり,いやおうなく彼の不安を煽った。

と,そのとき,窓が恐ろしい音とともに開いた。猛烈な雨がうなりを上げて吹き込み,黒い影が窓の向こうに表れた。「有効じゃ! これが神の言葉を冒涜したヤツらの末路だ!」 ずぶぬれのフラクスが室内に身を乗り出し,目を剥いて叫んだ。佐海は激しい風雨をまともに浴び,ソファから床にへたり込んだ。

「ウージェーヌめ,神を冒涜しおった! 椿め! とんだ反則野郎じゃ! なにがQ資料だ,なにがP資料だ! 神聖なる神のみ言葉をずたずたに汚す悪霊どもめ! 有効を喰らうがいい! A資料だのF資料だの,戯言は背負い投げじゃ!」

「フラクス!」 マルタン師が飛び込んでくる。「フラクス! なんてことを!」 狂人は威嚇の叫びとともに姿を消した。甲高い笑い声が遠ざかっていく。マルタン師は窓を閉めながら,佐海に椿の容態の急変を告げた。

佐海はマルタン師とともに僧坊に駆け込んだ。椿は全身を痙攣させ,ベッドの上でのたうち回っている。どこにそんな力が残されていたのか。まことに悪霊ではないか……恐ろしい考えに佐海は捉われた。やがて病人は横たわりながら飛び跳ねはじめた。まるでベッドがトランポリンになったかのように。身をよじり,泡を口からまき散らしていた。

「おお,おお,主よ」とマルタン師が十字を切る。

世話役の修道士が説明する。「私が目を離した隙に,フラクスが外から窓を開け,覗き込んでいたのです。あの男は,フレール・アントワーヌの目の前にこれを差し出していたのです」 修道士は佐海に三本の鶏の羽を見せた。

凄まじい雷鳴が鳴り響いた。そしてほとんど遅れずに稲光。修道院が打ちのめされて崩壊したかのようだった。

椿は飛び上がりながら,苦悶の叫びを上げる。そして,その絶叫は,次第にひとつの形となる。

「バ……バ……」

修道院の外で狂った高笑いが響き渡った。

「バ……バ……バ……」

再び天地を揺るがす稲妻。

「バ……バ……バケラッタ! バケラッタ! バケラッタ!」

……生ける神の手に落つるは恐ろしきかな(ヘブル書第十章三十一節)。

2013年7月30日火曜日

霊の名前(3)

修道院の事務室で,老神父(マルタン師という名だった)は佐海に分厚い紙束を差し出した。「佐海さんに出版のご尽力を頼んでほしい,というのです」 佐海の父は全国でも名を知られた出版社の創業者だった。そして,かつて椿にこう語った記憶が蘇った。「お前が本を出すときは,俺のところから出してやるぞ」 椿は約束を忘れていなかったのだ。

紙束の一枚目に「近代聖書文献学批判序説 オムニス資料仮説の検討 椿陽一著」と記されているのを見ながら,かつてその約束をしたときの椿に自分がどのような書物を期待していたかを思い出そうとした。人間の知覚・認識構造のすべてを詳細に描き出すことによりそれらを突破し,悟りに似た経験をもたらす哲学的著作,語られる一言一言に古代日本語から現代語に至るまで意義の差異が内包され,あらゆる一節で日本民族史が響きあう現代小説,あるいは魂と社会と存在の深淵へと容赦なく下降していくひとつの足取りを描く『神曲』さながらの長大雄渾な叙事詩……。それらは,現在出版社を経営する者の目から見ても今なお魅力的な企画に思えた。だが,この手の書物は……,と彼は原稿をぱらぱらめくった。丁寧な文字で満ちたそれらのページは,修正,加筆,切り貼り,紙の継ぎ足しで覆われていた。驚くべき辛苦の跡だった。これは椿の生涯の仕事なのだ。内容が何であれ,俺はこの原稿を形にしてやらねば……

神父はしかし,佐海の沈黙を逆に解釈した。「費用が問題でしたらば……フレール・アントワーヌに用意があるかと……」

佐海はきっぱりと言った。「いえ,これはぼくと椿との約束みたいなものです。できる限りのことはしましょう。ですが,少し内容についてお話し願えませんか? なにしろ聖書の知識すら怪しいぐらいで」

「ああ」 マルタン師は複雑な表情を浮かべた。「非常に高度な問題が扱われています。まことに申しにくいのですが,私もこの分野には疎いので。ウージェーヌ師がご存命なら良かったのですが……」 しかし,彼は自分に分かるだけは説明しようと決意したようだった。

「前修道院長のウージェーヌ師は,聖書文献学の泰斗として知られたお方でした。専門的な著作もいくつか出されております。あとでお見せしましょう……聖書文献学とは聖書を聖典ではなく,ひとつの文献資料として捉え,綿密な比較と批判を通じてその成立過程を明らかにする学問です。これは19世紀のドイツで盛んになった関係上,どちらかというとプロテスタントの学者が多いのですが,フランスとドイツで神学を修められたウージェーヌ師はカトリックの立場から聖書原典批判に取り組んでおられたのです……

「聖書については新約と旧約があるのはご存知かと思います。新約のはじめの四書はイエスの言行を記したマルコ,マタイ,ルカ,ヨハネの福音書なのですが,このうちはじめの三つには共通する逸話が多く,テキストを綿密に検討した学者たちは,これら三つの福音書(共観福音書と呼ばれておりますが)の作者たちが共通して参照したと考えられるギリシア語古資料の存在を確信するに至りました。もっとも古いイエスの言行録とでもいえるその失われた資料を,学者たちはドイツ語のQuelle(源泉)の頭文字をとってQ資料と名づけ,爾来現在に至るまでこの資料の性質に関してさまざまな議論が繰り広げられています。

「いっぽう,聖書文献学は旧約聖書についても大きな成果を上げました。とりわけモーセ五書の巻頭を飾る『創世記』の研究が有名でして,本文の綿密な批評的研究はこの書が少なくとも三つのヘブライ語伝承資料から成ることを明らかにしたのです。その三資料とはヤハウェ資料と呼ばれるJ資料,エロヒスト資料と呼ばれるE資料,祭司(プリースト)の関与の色濃いP資料なのですが,いわば『創世記』とはこれらの三資料の継ぎ接ぎだと考えられたのです。後になって,本文批判研究の蓄積にともない,この説(文書仮説と呼ばれますが)には多くの反論が寄せられるようになりました。ある宗派の中にはこれを完全否定するものもあるほどです。しかし,この文書仮説の熱烈たる擁護者がウージェーヌ師だったのです。ウージェーヌ師はP資料の徹底的再検討を行い,これが従来J資料,E資料と見なされていたテクストにも広がっていることを明らかにするともに,従来バビロン捕囚期(紀元前五世紀)とされていたその成立年代を綿密な歴史的検証のもと紀元前三世紀にまで引き下げる修正文書仮説を提出いたしました。それがこの」とマルタン師は書棚に手を伸ばして革装の大型本を取り出した。「"Das Überdenken der historische Positionierung der Priesterschrift(『祭司資料の史的位置づけの再検討』)"です。これはまったく衝撃的な書物でした。なぜなら,天地創造という最古の物語が,実のところ旧約聖書で最後に成立した部分だというのですから……

「ちょうど四年ほど前のことでしょうか,1人の青年が私どもの修道院の門を叩いたのは。彼は独自に聖書の研究を進めていることを告げ,かの重要な研究書の著者であるウージェーヌ師との面会を求めました。専門家ですら通読するのが難しいあの大著についてさまざまな疑問を携えて,直接著者に問うべくこの山奥にまでやってきたのです。ああ,出会うや否や二人が寝食を忘れて議論を交わしていたのを思い出します。それは傍から見ましても得難き出会いでした。言葉を交わすや否や双方が一瞬にして通じ合い,互いを認めあったのです。そして,次の朝には,ウージェーヌ師の勧めを待つまでもなく,その青年はこの修道院に見習いとして入会することを高らかに宣言したのでした。彼は規則に定められた通りの見習い期間を修了し,半年ほど前にフレール・アントワーヌ修道士として召命の道を私どもとともに歩むこととなりました。確かに,彼は当修道院ではもっとも新しく未熟な者ですが,その学識たるや,ウージェーヌ師の薫陶のおかげもあって,ここばかりでなく教区全体を見渡しましても,彼より優れた者は1人としておらぬほどの者となったのです。

「フレール・アントワーヌは新約について何年も研究を続け,Q資料の問題に関して相当の見識を抱いておりました。そして,ウージェーヌ師の著作を読んだ後,Q資料とP資料との間に何か実質的な関連があるのではないか,と考えたのです。まったく聖書学的にいえば荒唐無稽な仮説です。というのも,P資料はウージェーヌ師の説を受け入れるとしても紀元前二世紀にアラム語で書かれたのに対して,Q資料はどう早く見積もっても紀元五十年前後に成立したギリシア語文献です。両者に何らかの関係があるとは普通は考えられません。しかし,驚くべきことにこの仮説はウージェーヌ師を興奮させました。二人は最初の出会い以来,Q資料とP資料との関係の究明に没頭することとなったのです。

「私は通り一遍の聖書学の知識しかないもので,この二人がどのような研究を行っていたかについてははっきり申し上げることはできません。それに,それはこの原稿に必ずや述べられていることと思います(ついでにいうならば,この研究を論文として整理するようにフレール・アントワーヌに慫慂したのはウージェーヌ師なのでした)。私には難しくてとてもとても……。ですが,ひとつだけ私が理解していることがあります。それは,二人がQ資料とP資料との仲立ちとなるような宗教的文書を仮定し,それをO資料と呼んでいたことです。このOというのはラテン語で「すべて」を意味するOmnisの頭文字……そう,表題にあるオムニス資料とはこのことなのです」

2013年7月28日日曜日

霊の名前(2)

この老神父から佐海のもとへ手紙が届いたのは四日ほど前のことだった。神への賛美と畏怖に彩られた古風な文体のその手紙から,彼は大学以来十年も音信不通だった友人が,最果ての修道院に寄留し,しかも死の瀬戸際にあるということを知った。神父は,椿が「この現し世の最後の望みとして」佐海にしきりに会いたがっていることを記し,同時にこれが修道院にとっても非常に厳粛な意味を持つことをほのめかしていた。佐海はこの非凡な友人が両親の不幸な死以来,天涯孤独の身であったことを思い出した。そして,彼が引き継いだ莫大な遺産が彼にどれだけ神秘的なオーラを与えていたかを。「今や椿陽一兄の命,旦夕に迫ろうとしております。兄のもっとも親昵なる友である貴兄の来訪を切にお待ちする次第。いと高き主の恵みとお守りが貴兄にあらんことを祈りつつ」と手紙は結ばれていた。

老神父は一刻も早く佐海を椿のもとへ連れて行きたいようだった。佐海は彼の促すままに広間を通り抜け,庭に面した拱廊を進んだ。手入れの行き届いた草花が激しい雨の予感に押し拉がれていた。

「それほど椿は悪いのですか」

老神父は声を顰めて答えた。「残念ながら……なにしろ猛烈な発作なのです。ただでさえ細い身体があれほどまでに……すっかり衰弱し切ってましてな,次の発作は持つまい,というのがお医者さまの意見で。本当に駆け付けてくださったのは,私ども,あ,つまり,あの方にとって大いなる喜び……」

「で,何の病気なのです」

「ああ! それが分からないのです。もっぱら精神的なものとの見立てでございます。なにしろ熱烈な信仰をお持ちの方で……それこそ命をすり減らすような非常な献身を続けられた結果かと。ですが,ここ数日は安らかな日々で,これがずっと続けば良いのですが……」

挟廊の奥の突き当たりには扉がいくつか並び,そのひとつを老神父はそっと叩いた。別の修道士が扉を開けると,老神父は優しい声で呼びかけた。「フレール・アントワーヌ(アントワーヌ兄)! あなたのお友達がいらっしゃいましたよ!」

彼は,庭に大きく開いた窓を背景にベッドに横たわっていた。まるで骸骨のようにやせ細っていはいるが,その繊細でくっきりとした横顔は紛れもなく彼のものだった。朦朧として目の焦点も合わない様子で,まるで羽毛か影のようにはかなげに見えた。

「椿! 来たぞ! 来たぞ!」 佐海は励ますように叫んだ。

その目にかすかな光がひらめき,灰色の顔を生気が波立てた。

「俺はお前がベッドにいるのを見れてうれしいよ! お前,大学の頃,寝ないのが自慢だったもんな!」

椿はあどけないほどの笑みを浮かべ,佐海をじっと見つめている。

「いつも本ばかり読んで,かと思うと議論,議論,議論だ。まったく寝る暇なんてありゃしない。俺はいつかこうなると思ってたぜ」

うれしそうに喉を鳴らす。

「ゆっくり休んで早く元気になることだな。しかし,俺は驚いたね,お前がキリスト教徒になったとは! ほら,あいつ,覚えているだろ,あのキリスト教徒の教授,そう飯島だ,お前,講義中にあいつに言ったこと覚えてるか,そりゃひどいこと言ったじゃねえか……」

まったく大学時代の思い出は尽きなかった。話しているうちに佐海は感傷的な喜びを感じたが,それは確かに椿に伝わっていた。ほとんど話すことができなかった彼が,いつしかため息に似た言葉で佐海の記憶を補ったり,訂正しようと試みていた。左翼の過激派が乗っ取った大学公認サークルを,椿が巧みな計略により奪還するという名高い冒険についてひとくさり話題にすると,佐海はやや改まった口調で尋ねた。「で,俺に何の用があるんだ。なんだってするぜ,それでお前が元気になるのなら」

たちまち椿の顔に赤みが差し,異様な光が目に宿った。彼は掛け布団から手を出し,うめきながら老神父を指差す……それまで黙って見守っていたその人は飛び上がらんばかりに驚き,ベッドに駆け寄った。「おお,フレール・アントワーヌ,大丈夫ですとも,私からきちんとお話しします」 やさしく椿の手を握る。「少しお休みいたしましょう。お体に触るといけませんから。佐海さんにはちゃんと話しますとも」

「そうそう,少し休んだほうがいい。安心しな。俺はまた後で来るよ」

佐海がそう告げると椿は幼児のように目を閉じ,まどろみはじめた。短い面会は友人をひどく疲弊させたようだった。邪気のないその寝顔を佐海は痛ましい気持ちで見つめた。

2013年7月27日土曜日

霊の名前(1)

鬱蒼とした森の上に古びた鐘楼が迫り上り,山道を登るにつれ修道院がゆっくりと姿を現した。

一歩一歩踏みしめながら佐海は椿陽一のことを考えていた。まったく信じられないことだった。学生時代にその鋭利な知能を恐れられた彼,誰もが有望な前途を疑わなかった輝かしき親友が今,この世に隠れた修道院で息絶えようとしているとは。昼を過ぎた辺りから曇りはじめた初夏の空は次第に陰気さを増し,それに急かされるかのように佐海は足を速めた。

不意に竹薮がざわめき,奇怪な風体の男が姿を現した。「おおお,ここは悪霊の巣じゃぞ!」 ぼろぼろの僧服から突き出した裸足の足を踏ん張って佐海の前に立ちふさがり,獣のように叫ぶ。「お前には手に負えぬぞ!」 歪んだ顔で睨みつけるその目はギラギラと狂気に燃えていた。 「悪霊どもよ! 有効じゃ!」 男は手にぶら下げた何かを振り回した。それが鶏の死骸であることに佐海は気がついた。「ゆーうーこーうー!」

そのとき,犬の鳴き声が修道院のほうから聞こえた。怪人はとたんに怯え出し,弱々しげな目で辺りを見回す。と,ううう,と唸りながら,再び藪の中に飛び込んだ。激しい葉擦れの音が遠ざかっていった。

佐海はこの異常な雰囲気にまったく圧倒されてしまった。修道院の鉄門の前にようやく立ったときも,彼は身の震えを抑えることができなかったほどだった。

呼び鈴を押さぬうちに,玄関から老人が小走りにやってくるのが,鉄柵越しに見えた。老人は鉄扉を開き,控え目な笑みで客を迎え入れた。「犬が吠えたもので! もうおいででになったとピンと来たわけで!」

老神父は佐海の青ざめた表情に気がついたとしても,それにこだわっている余裕などなかった。彼は明らかに佐海の来訪に有頂天になり,また同時に深い安堵を感じていた。

「お待ちしておりました! ええ,間に合いましたとも。本当に良かった! 今は落ち着いております。どうぞこちらへ!」 一匹のグレーハウンドがどこからともなく走り寄り,二人を玄関へと先導した。

2013年6月19日水曜日

県々諤々

登場県:千葉県,香川県,大分県,埼玉県

千葉県「スゴーい,うどん県なんて」

香川県「いやいや,うどんが好きなだけで。大分県さんだっておんせん県にふさわしいですよ」

大分県「ありがとうございます」

千葉県「そうですよ〜。うちなんて鉱泉ばかりだもん。」

香川県「千葉県さんだって,なんかあるはずですよ。自慢できるものとか,名産品とか」

千葉県「ないですよ〜ホント。ダメな県なんです〜」

大分県「あるじゃないですか。ほら,あの落……」

千葉県(さえぎって)「え〜え〜え〜,あるとしたら,せいぜいディズニー県かなあ」

香川・大分県「そうそう,千葉県さんスゴいじゃないですか!」

千葉県「全然スゴくないですよ〜。だって,ネズミだよ〜。それにカリフォルニアとか,パリとか,香港とかにもあるもん,千葉だけじゃないよ〜」

香川県「それだっていいじゃない。うどんだって日本中で食べますよ」

千葉県「でも,関東ではうどんは病気のときだけでしょ〜。病気じゃないときに出されたらガッカリしちゃうもん。だからホントすごいと思うよ,うどん県さんって。元気なときも喜んで食べるんだから。ホント,見習わなくっちゃ!」

香川県「……」

千葉県(ちょっと考えて)「あっ,いいのあった! 空港県。だって成田空港があるでしょ」

大分県「ああ,いいですね〜。あと,あれもあるんじゃないですか? ピー……」

千葉県(さえぎって)「でも,そんなにたいしたことないよ〜。国際なだけだよ〜。ハブじゃないし,中森明菜が歌ってるし,成田闘争終わってないし,外国に行ける以外利点ないよ〜。やっぱり日本人は行くなら温泉ですよ〜,熱海とか! 草津とか! 鬼怒川とか!」

大分県「……」

埼玉県(薮から棒に)「池袋県!」

全員「いたの!?」