2010年12月31日金曜日

ジャニーズ

2歳8ヶ月の娘がジャニーズに食いついた。テレビで歌う嵐を見て、すっかりイカれてしまったのだ。

ジャニーズのアイドルなど生まれてこのかた興味がなかったが、調子に乗ってジャニーズのグループの番組をいろいろ見せてやった。V6とか、KAT-TUNとか、NEWSとか、タッキー&翼とか。そしたら、もっと夢中になった。

一度、本屋に一緒に行って、幼児向けの本でも買ってやろうと物色していると、勝手に見つけてきやがった。雑誌「ポポロ」を。表紙にジャニーズ・アイドルがわんさかだ。

買ってやると、一日中グラビアを眺めてる。そればかりではない。その写真の一枚一枚について、二宮くんは何しているのか、手越くんはなんと言っているのか、尋ねてくる。そんなこと知ったこっちゃない。言えるとしたら、かっこよくポーズを付けている、それぐらい。

だが、それでは父親としての務めを果たしたことにはならない。そこでこう言ってやる。手越くんは「お風呂で頭を洗おう」っていってるよ。亀梨くんは「おしっこはおまるでね」って・・・・・・。

そんなこんなですっかり頭がジャニーズでいっぱいになった娘だが、ついにおかしな反応を見せるようになった。

激しい風が吹いた朝があった。母親が「今日は嵐だ」というと、娘が即座に反応したのだ。「嵐?」 ジャニーズだと思って。娘のジャニーズ感知器がその言葉をキャッチしたのだ。

「テレビのニュース」という言葉にだって、感知器は反応する。「手越くん?!」 

「手越くん?!」 じゃないよ。

「ごちゃまぜカメレオン」という絵本を読んでやった。カメレオンにフラミンゴの翼が生える場面が出てくる。この「翼」にもビビッときてしまった。「翼くん?!」

この間、テレビでフィギュア・スケートをやっていた。安藤美姫が演技している。すると、ここで娘のジャニーズ感知器が急作動。なんだ、引っかかる言葉は何もないぞ。

「アンドー?!」

「タッキー&翼」の「&」に反応していたのだった・・・・・・。

2010年12月21日火曜日

クリスマスの夜に

夜、羊飼いたちが羊の番をしていると、天使が大勢でやってきて「今日、あなた方のために救い主がお生まれになった」と告げ、神を讃美した。

天使の出現に驚愕した羊飼いたちは、急ぎ町に向かい、そこで天使の言葉通り、生まれたばかりの赤子が飼い葉桶ですやすや眠っているのを見いだした。

「天使のいわれたことはまことに正しかった!」

彼らは自分たちに起きた不思議な出来事についてその子の両親に語り、熱烈に神を讃美した。

さて、羊飼いのなかに、ひとりの老人がいた。長きにわたる放牧生活のため、彼の肌、毛髪、肉体、衣服ばかりでなく、知性もまたすっかり消耗しきっていた。彼の人生はといえば、自分が最後に屋根の下で眠ったのはいつか、また最後に顔を洗ったのはいつかも思い出せないくらいの貧しく厳しいものなのであった。

もし救い主が現れるとしたら、彼のような人のため以外にはありえなかった。その意味では、天使が彼を含む羊飼いたちを救われるべき者たちの代表として選出し、その目の前に現れて、救い主の誕生を告げるというド派手なパフォーマンスを行ったのは、間違っていなかった。絶大なる神学的効果があった。

ただし、老人がそれを真に受けてしまった、という誤算を除けば。

その日から、老人はマリアとヨセフのところにひっきりなしにやってくるようになった。救いはまだか、救いはまだかと矢の催促だ。ぐっすり眠っているイエスを覗き込んでは、早くしろとばかりに揺すったり、「まだ寝てる!」とぷりぷりしたり。びっくりしたイエスが泣きはじめると、カンカンになってマリアとヨセフに難癖を付けた。「お前たちの教育が悪いから」というのだ。かと思うとオイオイ泣き出した。「これじゃ救いも台無しだ!」と絶望的になって。

マリアとヨセフは困り果て、熱心に神に祈った。すると、天使が現れて、幼子イエスがいつ救い主としての活動をはじめるかを告げた。

これで厄介払いできる、とばかりに二人は哀れな老人に大急ぎで話す。したら、そのじいさん怒るまいことか。

「えっ30年後だって。ふざけんな! そんな先のことなんか、構ってられるか。だいいち俺がそんなときまで生きてられるか。あのくそ天使どもめ! 俺を演出のために利用しやがった! まるでクリスマスツリーの吊り飾りみたいに。電飾みたいにピカピカ光らせて、用が済んだらご退場とばかりに捨てやがった! もう頭にきた! 救いなんぞ一切ごめんだ。後から来たってもう知らない! 俺はテコでも救われない!」

2010年12月3日金曜日

命まけ

小さい頃からプレッシャーというヤツに弱くてですね、ここぞというときにたいていシクジるのですよ。度胸がないというか、本番に弱いというか。それで、できるだけプレッシャーを避けて生きてきたわけです。徹底して。

まあ、それはそれでうまくいったのです。影を辿って歩くような消極的な生き方ですが、それに何の不都合もなかった。ところがですね、みなさんこうおっしゃるのです。「かけがえのない命」と! 「たったひとつの命」と! とんでもないことだ、わたしはこう思いましたね。そこで、わたしはモノの分かった人に尋ねてみましたよ。

「かけがえのない命、たったひとつの命と主張する人がいるのですが、それは本当ですか?」

「うむ、そのとおりじゃ」

「ですが、みんながみんなそんなにかけがえのないわけではないんでは? なかにはどうでもよい命だってあるのではないでしょうか」

「いや、命はどのような命だって尊く大切なものなのじゃ」

「ひょっとしたらと思ってお尋ねするのですが、わたしの命もそうなのですか」

「もちろんそうじゃとも」

なんと、わたしの命がそんなにも大切なものだなんて! これには参りました!

それからというもの、もう恐ろしくて恐ろしくて。そんな貴重なものとも気づかずに、まるでビニール袋にぶら下げるかのようにして生きてきたわけですから。外にだってもう出れやしません。おちおち夜も眠れません。そのプレッシャーたるや!

こんな厄介なものを背負わされると分かっていたら、生まれようだなんて思いませんでしたよ!

2010年12月1日水曜日

新幹線

千葉にお住まいの方々、そして千葉を愛する方々に大事なお話しがあります。

千葉の新幹線についてです。こう申し上げますと「千葉に新幹線などないぞ!」という声が聞こえます。「そんな計画もないぞ!」とも。

ですが、それは大いなる間違いなのです。わたしの話をよくお聞き下さい。

新幹線「こだま」と「ひかり」がありますね。この名称はそれぞれ音と光に由来します。音速、光速のように速い、というわけです。

ここで物理学のお話しをしましょう。ノーベル物理学賞を受賞したアインシュタイン博士の相対性理論によれば音も光も波だとのことです。そして、この偉大な科学者はまた、さざ波もまた波であることを公表いたしました。

すなわちア博士の理論を信じる限り、京葉線と内房線をひた走る「さざなみ」も「こだま」や「ひかり」と同等に扱わざるをえないのです。なぜなら、すべて波に由来するのですから。

ゆえに、「さざなみ」は特急ではなく新幹線の一種と認定すべきなのです。

厳密な科学的視点に立てばそう言わざるをえません。千葉県民として申し上げているのではありません。科学技術立国日本の国民として申し上げているのです。

「嘘をつけ!」「デタラメだ!」「ピーナツ野郎め!」「チバラギ人め!」「なめろう!」 

みなさん、落ち着いて下さい! 興奮しておられるのは、妖怪列車でお馴染みの鳥取県の方でしょうか? それとも福井の方でしょうか。どんな蒸気機関車が走っているのか存じ上げませんが・・・・・・。 

大丈夫! みなさんの県にも千葉県と同じようにいずれ新幹線が通ることがあるでしょう。23世紀ぐらいにはきっと。

いや、みなさんが一生懸命心から願えば、案外その日は早く到来するかもしれません。なぜなら、この世でもっとも速いもの、音よりも光よりもはるかに速いもの、それは「のぞみ」にほかならないのですから・・・・・・。

2010年11月25日木曜日

ポジティブ

コップに半分水が入っている。「まだ半分」と思うか、「もう半分」と思うかで、その人の生き方が違ってくる。それと同様に、死に方も異なってくるのだ。棺桶に片足突っ込んでいても、「まだ片足だけ」と思うか、「もう片足しか」と思うかで・・・・・。

2010年11月21日日曜日

真相づくし

猿についての真相を聞いたことはありますか。実は猿というものは、言葉を決して話すまいと決心した人間にほかならないというのです。ええ、本に書いてあります。ですが、何の本か忘れてしまいました。

では、新種にまつわる真相については? ああ、ご存じない。これにも真相があるのですよ。よくニュースで報じられますよね。インドネシアだか、アマゾンとかで、やれ新種のカエルが見つかった、やれ新種のヒトデが見つかったと。あれを、ひょっとして、今まで人の目に隠れていた種がついに発見されたのだ、とお考えではありませんか? 違うのです。そんなものではないのです。あれは既存の発見済みの種が進化したのです。

すかしっ屁の真相ならご存じでしょう。そうです。すかしっ屁が臭いというのは間違いなのです。音のない屁には臭くないものもあるのです。ですが、音もなくて臭くもない屁・・・・・・これは存在しないも同然です。ゆえに、音のない屁でわたしたちの知覚に感知せられるのは、つねに臭い屁なのです。

老人の真相というものもあります。いらっしゃいますよね、80歳、90歳のお年寄りが。そうしたご高齢の方々を見て、みなさん、おっしゃいます。「そんなお年には見えない!」 「お若いですね!」 不思議なことに決まってみなさんそう驚かれるのです。そうです、おわかりになりましたね。若く見える人だけが生き残るのです! 実年齢60歳で、見た目が80歳といった人々は、間違いなくあの世にさっさと旅立つのです。

最後に食べ物の真相を披露致しましょう。よくいますよね、トマトをしげしげと眺めながら「こんな赤くて気持ち悪いものをはじめて食べた人はえらい」という人が。そういう人はまず間違いなくホヤとナマコを見る度に同じことを言うはずです。あるいは感に堪えないといった面持ちでこんなことを言う人がいるかもしれません。「人間はどうやって食べられるキノコと毒キノコを判別したのだろう!」と。 ふぐについても似たようなことを言って、歴史の闇に埋もれた無数の犠牲者に思いを馳せて神妙な顔つきをしている人もいるに違いありません。

ああもう! これはまったくの謬見です。間違いもはなはだしい! まさに教育の荒廃です! 真相はこうです。原初の時代、人類は何でも食べたのです! ふぐの肝でも、泥でも、糞でも、石でも、木の皮でも、毒虫でもえり好みせず、何でも食べたのです。自分でも何を食べたか分からないくらい、どんなものでも口にしたのです。ですが、時代が下るにしたがって、舌が奢ったのです、すききらいが激しくなったのです。そうしてついに食べるものと食べないものの差別が生じたのです。

言い換えれば、われわれはそれだけひ弱になったということです。美食と引き替えに、石を消化する力、木々の強固な繊維を咀嚼する力、ふぐの肝やトリカブトの毒を耐え凌ぐ力を失ったのですから。贅沢は人を脆弱にする、これは本当のことなのです。

2010年10月31日日曜日

空元気(3)

わたしと彼の戦いは熾烈を極めた。元気の源先生にほとんど密着せんばかりになってわたしたちは、互いに鋭く牽制しつつ、その体のあちこちから、元気を奪い取っていったのである。わたしが脇の下からかすめ取れば、彼は股ぐらから素早く抜き取るといった塩梅で、わたしたちはあたかも二人の掏摸、あるいは吸血鬼のように先生に群がったのであった。

すでに彼のほうが元気のお貰いでは先行していたため、わたしは追いつけ追い越せで必死になっていた。そのため、先生のお声がかすれ気味になっていたこと、あるいはお顔色がどす黒くなっていたことや、お体に奇妙な痙攣が生じていたこと、つまり、元気という元気を吸い取られてもはや倒れる寸前であったことに気がつかなかった。

思うに、わたしの敵はすでに同じような戦いを経験していたに違いない。彼はこのような争いがどのような決着を迎えるかを十分知り尽くしており、完全なる勝利を得るために周到な準備をしていたのである。彼こそは真の吸血鬼であった。

先生はやがて空気の抜けるような音とを立て、きりきり舞いをして倒れた。白目を剥いてもう虫の息だ。だが、ライバルはこの瞬間をこそ待っていたのだ。彼は呆気にとられるわたしに飛びかかり、わたしに上回る元気でわたしを押さえつけると、走り寄ってきた先生の家の者たちにこう言ったのであった。

「すぐに警察と救急車を! とんでもない窃盗傷害犯め! 元気泥棒の罪で訴えてやる!」

わたしはその後、駆けつけてきた警官たちに取り囲まれ、パトカーに放り込まれたのだった。背後から聞こえたあいつの勝ち誇った元気な高笑いを決して忘れることはないだろう・・・・・・。

「警察署では、さんざん油を絞られたよ」と、この出来事以来、前にも増して意気消沈しているわたしは友人に電話口でこぼした。「お前が余計なアドバイスをしたせいで、とんだ酷い目にあったんだ」

すると、友人。「なに、油を絞られた? なら、いい油屋があるから、安心しな!」

2010年10月29日金曜日

空元気(2)

その若い男がここに何しにきたかは、疫病神のような顔を見れば一目瞭然だった。わたしと同じように元気の分け前にありつこうと、なけなしの気力を奮い立てて這いつくばるようにしてやってきたのだった。

いつものわたしだったら、こんな塞ぎの虫の親玉のようなヤツと同席することに激しい嫌悪を抱いたかもしれなかった。しかし、わたしは、何のためらいもなく、彼が座れるように腰をずらした。すでにかなりの元気をもらったため、博愛精神が芽生えはじめていたのだ。

再び、清々しい談話がはじまった。元気の源先生は、かけがえのない生命についてさまざまな感動的な実話とともに語り、わたしはそれを聞くやたちまち生命の炎が身中に燃え広がるのを感じた。あまりの熱気にシャツを引き裂かんばかりだった。若者をちらりと横目で見ると、やはり元気をもらっているご様子で、頬に赤みが差すほどの打ち変わりよう。

しかし、この男、身を乗り出して積極的に話にぐいぐい入ってくるので、先生もだんだん新参者のほうを向いて話し出す。これはいかん、とわたしも話に加わろうとするが、二人のやりとりにどうしても食い込むことができない。幾度も無駄に城攻めを繰り返したあげく、わたしはすっかり元気をなくしてしまった・・・・・・そこで、気がついた。わたしは元気の争奪戦に敗れる瀬戸際にいたのである。

わたしは最後の元気を振り絞って、決戦にうって出た。

2010年10月28日木曜日

空元気(1)

近頃何をするにもおっくうで、やる気が出ない。たまたま電話のかかってきた友人に「どうも、元気が湧かなくて」とこぼすと、呆れられた。

「元気が湧かない? そんなことをいってるからダメなんだ。きょうび、元気は湧かすものじゃなくて、もらうものなんだ。どいつもこいつも言ってるだろ。『元気をもらいました!』って。時代錯誤もいい加減にしろ」

引きこもっているうちに時代が変わったらしい。 「もらうって、どこに行けばもらえるのか」

彼はしばらく考えた後、この人なら、という人を紹介してくれた。

半信半疑だったが重い体を引きずって、その元気をもらえるという人物の家に行った。息絶え絶えの有様だったが、それでもそんな気になったのは、すでに友人から多少の元気をもらっていたかららしい。

扉を開けたその瞬間から、その人物はわたしを圧倒してしまった。あたかも彼は烈風のようにわたしを拉し去り、わたしの悩みなどいとも簡単に吹き飛ばしてしまったのである。これ以上の明朗快活、これ以上の活気にわたしは出会ったことはなかった。彼はまさしく元気の源であった。

彼はさまざまなことを話した。世界のこと、平和のこと、国家のこと、幸福のこと、わたしはそれらの美しい言葉を聞いているうちに勃然と立ち上がり、叫びたい衝動に駆られた。もちろん、「元気をもらいました!」のひとことを。

だが、その瞬間、 「先生、またお話をお伺いに・・・・・・」と、怖気を催させるほどに覇気のない声が。別の若者がわたしたちの輝かしい語らいに闖入してきたのであった。この不意の妨害に、わたしはすでに上げかけた腰を下ろさざるを得なかった。

2010年10月12日火曜日

不屈もほどほどに

その次に彼がわたしに示したのは、まったく異様、奇々怪々な光景なのでした。

そこでは無数の人々が鬼たちと闘っているのでした。ある者は銃剣を振りかざし、ある者は竹槍を突き上げ、盛んに叫び声を上げながら、敵に猛突進していきました。敵たちは、鬼のような姿格好はしていませんでしたが、おでこに「鬼畜米英」と記された紙を貼り付けていたのでそれと知れました。

戦闘は一箇所だけで行われているのではありませんでした。遙か上空では戦闘機が唸りを上げて飛び交い、 相手を堕とそうと躍起になって撃ちまくっていました。遠い海原では白波を上げて進む空母に特攻隊が襲いかかろうとしていました。また、地上を進む戦車の群れや、敗走する兵士たちの姿も臨むことができました。かと思うと、工場で働くもんぺ姿の女性たちや、芋の蔓を囓る洟垂れ小僧も見えました。

まるであたかも、かの不幸な歴史が地獄の広大極まりないワンフロアーに出現したかのようでした。

「デアゴスティーニのシリーズ『週刊 太平洋戦争末期の世界 1/1スケール』でこれだけ完璧に再現するとしたら、いったい何週間かかることだろうか! 億ではきくまい!」と、わたしが胸算用していると、全世界に響き渡るような大声が次のように告げました。

「はい、終了〜。残念、原爆また落とされた〜!」

直ちに、凄まじい熱と光が炸裂し、これらの情景をあっという間に破壊し去り、後には焼け野原と一群の男と鬼が残されました。これらの男たちは、原爆などなかったかのように再び武装をはじめ、鬼たちにたいしてもう一度パールハーバーをおっぱじめたのでした。

唖然としているわたしに彼が語りかけました。

「戦争で負けたことを受け入れることのできない負けず嫌いは、死後このような地獄に落ちることとなるのだ。彼らは現実と同じ条件の下に闘い、原爆が落ちるまでの間に勝利することができれば解放されることになるのだが・・・・・・竹槍ではな!」

彼は爆笑していました。そしてわたしも釣られて腹を抱えて笑ったのでした。わたしたちはその場に留まり、原爆が15〜6回ほど続けて落とされるのを見て笑い転げていましたが、やがて飽きたので別の地獄に移動しました。

2010年9月28日火曜日

永遠に評価定まらず

その次に彼に連れてこられた場所でわたしは、驚くべき人々が鬼たちに苦しめられているのを目撃しました。

それらは中曽根康弘、安部晋三、菅直人たち著名な政治家たちであり、彼らは鬼に灼熱の勲章を地肌に突き立てられたり、鬼の遺族会に責め立てられたり、掲示板で鬼のネチズンに罵詈雑言を浴びせかけられたりしていたのでした。

生前は政治家として頂点に登り詰め、その権勢並びなき者であったこれらの人々も、地獄にあっては鬼の無党派層に相当苦しめられている模様でした。

「国家のために自らを犠牲にしたこれらの賢人たちに対して、これはあまりの仕打ちではないでしょうか!」とわたしが彼に詰め寄ると、次のような答えが返ってきました。

「これらの愚人どもは『政治家の評価は歴史が決める』とか、『政治家は歴史という法廷で裁かれる』とか、その他それに類することを言って、自らの政治的行為に対する責任を後世に丸投げしたばかりでなく、国民が政治家を評価するという民主主義の原則をも軽視したため、このような責め苦にあっているのだ」

「ですが、ある政治的決断のもつ評価が、時の経過により好転することもあるのではないでしょうか。これらの政治家たちにしても、その業績の真価を見極めるには、まだ時期尚早なように思われますが」

すると、彼は重々しく答えました。「鬼の責め苦の評価とて、決めるのは歴史なのだ」

わたしはこの言葉に仰天しました。「なんと、地獄も『棺覆って事定まる』のシステムだとは! だがそもそも鬼は死ぬのだろうか」 わたしはいろいろと考えをめぐらせるうちに、恐怖にとらわれました。というのも、頼みの綱の因果応報そのものも非常に疑わしいもののように思われてきたからでした。


【追記】
志賀直哉が随筆「銅像」で次のように書いている。

東条は首相の頃、「自分のする事に非難のある事も承知してゐる。然し自分は後世史家の正しい批判を待つよりないと思つてゐる」かう云つてゐたと云ふ。その後、新聞で、同じ事を云つてゐるのを読んで、滑稽にも感じ、不愉快にも思つた。

こう述べた後、志賀直哉はある巧妙なやり方で東条英機を蹴り落とすのである。(2010/X/08)

2010年9月20日月曜日

吸いたがり

「タバコを吸っているまさにその時に、こんな風に思ったことはありませんか?」と彼。「ああ、タバコが吸いたい、と。あたかも自分がタバコなど口にしていないかのように。これぞ悲喜劇というものです」

「そして」とぼくは続けた。「それが依存というものです」

「ええ、その通り。直ちに治療が、通院が、パッチが必要、というわけです。ですが、物事にはさまざまな見方があります。わたしはこう考えたのでした。わたしが吸っているタバコは、実は偽物で、本当のタバコではないからそう感じるのだ、と。そして、その本物こそが、どんなに吸っても癒されぬ空虚な気持ち、まさに吸っているその時に感じられる満たされぬ思いを解消してくれるのだ、と」

「そのように考えて麻薬に手を出す人もいます」とぼくがいうと、彼は「まさか、わたしが」と笑った。

「そんなものには手を出しませんよ。それにたとえ手を出しても、同じ虚無感を味わうのがオチだということも承知しているつもりです。きっと「本物の麻薬」が欲しくなって世界を旅するハメになることでしょう。あなたのいうように依存とみなす限りは、それは不可避です。ですが、わたしは純然たる意思の力でこれを乗り越えたのでした」

「頑張って禁煙した、とおっしゃるのですか?」

「禁煙など! わたしは今でも愛煙家ですよ」 実に愉快そうな口ぶりだった。

「わたしの出発点は、実在するいかなるタバコもわたしを満たしはしないということでした。いや、こう言い換えたらいいかもしれません。タバコの実在性こそが、わたしの虚無感の原因であったのです。ところで、君はプラトンを読んだことはありますか? エロースについて聞いたことは?」

ぼくは当惑して答えた。「いきなり下ネタですか?」

「君には別の話し方をしましょう。要するにわたしは、超越的な思念の力によって非存在のタバコに到達したのです。実在するタバコで満足できないのなら、存在しないタバコならどうだろう、と考えたわけです。いわば発想の転換ですね。そして、効果はてきめんでした。このタバコは、わたしに完璧な満足を与えてくれます」

「お言葉ですが、存在しないものを吸うなんて、荒唐無稽ではありませんか?」

「さにあらず! 実在するタバコを吸う時、脳はこの実在するタバコ以外のタバコを激しく欲求します。このことについてはすでにお話ししましたね。では、この脳の欲求に非存在のタバコを与えてみましょう。するとこの非存在のタバコは、非存在のままに脳の欲求を満たすのですが、同時に脳の欲求において、非存在のタバコは存在するものとなるのです。なぜならわたしたちは実在しないものによっては、満たされないのですから。わたしは、この非実在のタバコの銘柄を『イデア』 と名付けました」

ぼくは彼の知恵に感嘆した。「ああ、ひょっとすると、欲望を満たすその実在性こそが、ぼくたちの依存している当のものなのではないでしょうか」

「まさにそうなのです。ですがこの本質的依存症についてはまたいつかお話ししましょう」

彼はそう語り終えると、長く長く息を吐いた。そして、あたかも見えない紫煙を追うかのように、視線を宙に漂わせた。

「ああ、もうすでに吸ってらっしゃるのですね。その『イデア』と呼ばれるタバコを」

「ええ、ですが健康のことを考えて、現在は『イデア・スーパーライト』にしています」

2010年9月18日土曜日

何度でも可

「たった一度の人生だから、精一杯好きなことをやって生きるのだ」と語る人物よりも、たとえ百億度目の生であろうと何であろうと、その幾万度目かの生においてオケラであった当時も、あるいはまた幾億度目の別の生においてナマケモノであった当時も、また別の生においてそれ以外の畜生であったときでも、精一杯好きなことをやって生きてきたし(たとえば水辺でのんびりしたり、あるいは樹木にぶら下がったりしてなど)、そして今まさに人として生を受けた今生においても等しく一切手を抜かずに「精一杯好きなことをやって生きています」と語り、その挙動からすでにして来世においても同様の頑張り、及びしゃかりきぶりが明らかに期待できる人物のほうがどれだけ好ましく感じられるだろうか。我が弟子たちよ、よくよく考えるがよい。

2010年9月3日金曜日

遺族屋

その男はわたしの目の前に突然立ちふさがり、こういった。

「遺族はいかがですか? あなた亡き後、あなたのために遺族となってくれる者は?」

「ああ、ぼくはあいにく死ぬ予定はないですし、たとえ死んだとしても、家族持ちなので間に合っています」

「なんと、あなたはご自分の家族を遺族とおっしゃる。残念ながらそれは大きな見込み違い。あなたの家族はせいぜいがとこ、数粒の涙とともにあなたの汚らしい骨を壺に突っ込んで、墓の下に投げ入れるのが関の山。それであなたはおしまい、というわけです。ま、体のよいお払い箱です。ですが、このわたしにお任せ下されば、このわたしを遺族として下されば、おお、あなたは永遠に生き続けます。

わたしはあなたの死から、未完のプロジェクトを、壮大な見果てぬ夢を引き出して見せましょう。あなたのあまりある無念をひっさげて、世間に訴えかけましょう。静かな共感の輪を広げて見せましょう。遺族会を結成してみせます、支援者の集いを開催します。あなたときたら死せる孔明さながらです。

あなたの死によって、法律を変えてみせましょう。あなたの死によって社会を改良してみせましょう。あなたは歴史の本でこんな文句に出くわしたことはありませんか? 『だれそれの死をきっかけに、運動が盛り上がり、ついには政府を動かした』と。 そう、次はあなたの番です。もしもわたしを遺族にお選び下されば、あなたの名前が歴史に刻まれるのです!

わたしは決してあなたの死を無駄にはしません。これが遺族として、わたしができる最良のお約束です! さあ、いかがでしょう。こんな機会は滅多にあるものではありません。今すぐ、わたしを遺族として任命して下さい。わたしをあなたの生命保険の受取人にするだけの簡単手続き! さ、署名とはんこを! 後は心安らかに死んでください!」

2010年8月29日日曜日

ユダヤの王様ゲーム

《遊び方》

①居酒屋やカラオケに気の合う仲間で集まろう。

②くじ引きをしよう。端に印のついた割り箸を引いた人が今日の王様だ。

③さっそく王様に十字架を背負わせて、刑場に連れて行こう。

④酸っぱい葡萄酒を注文して飲ませよう。

⑤「ユダヤの王様ばんざあい」と揶揄しよう。王様の額に「これはユダヤの王」という札を付けるのを忘れずに。 茨の冠があれば、被らせること。

⑥その他、王様に好きなだけイタズラし放題!

⑦最後に必ず十字架につけて殺そう。

⑧王様が3日後に復活しちゃう前にさっさと退散すること。

⑨次の王様を決めよう。

2010年8月28日土曜日

エクリチュール

「まつたくなんてことをするのだ。かわいさうぢゃないか」

すっかりホカホカになって脱衣場を出るやいなや、男がそう怒鳴ったのが聞こえた。わたしはのれんをくぐり、入り口のカウンターを通り過ぎようとした。

男はカウンターの中の従業員を睨みつけていた。彼の髪はわたしのと同じく濡れていたが、温泉内で彼を見かけた記憶はなかった。

「君、あれを読んでみたまへ」

彼は壁の張り紙を指差した。そこには「刺青の方は入浴は固くお断りします」と書かれていた。

「嗚呼! 君が不注意だったばっかりに、渠はとんだ晒し者になつてしまつた!」

従業員の年配の女性はまったく困惑しきっていて、男がカウンターを両手で叩いて叫ぶと、怯えた表情を浮かべた。「どうしたらよいだらう! 此は渠の名誉の問題なのだ。君はすつかり渠を破滅させてしまつた!」

そのとき、日焼けしたいかつい男がのれんをくぐって出てきた。わたしは彼が刺青を入れた裸体を念入りに洗っていたのを浴場で見ていた。

怒れる男はこの刺青男を見るや表情を和らげ、声をかけた。「大丈夫かね? 僕は君のことが心配でたまらなかつたんです!」

そして、再び従業員のほうを向き、刺青男を手で指し示しながらいった。

「君が此のお方に刺青をした人は入浴をしてはいけないということをちやんと教えなかつたから、此の人は知らずにそのまま入つてしまつたのだ。全身にびっしり描かれた陳腐なサンボリスムを丸出しにして! 龍だの鯉だの牡丹だの桜だのの見かけ倒しの幻覚をさらけ出して! 肉体による無知蒙昧な原始的な信仰告白を垂れ流して! わたしはもう見てられなかつた。だって、かわいさうじゃないか。 哀れぢゃないか。いいかね、きみはこの哀れで、すでに身に辱め受けた人間にさらなる侮辱を与へたのだ!」

刺青男が威圧感たっぷりに男のほうに近付いてきた。男は振り向いて任せろとばかりにいった。「大丈夫、大丈夫、安心したまへ。ここは僕が何とかするから!」

だが、その言葉が終わらぬうちに、男の血が件の張り紙の上にまで飛び散った。

2010年8月13日金曜日

追悼

ひょんなことから人を殺しましたのが18の頃のことでございます。たまたま盗みに入ったところを見とがめられましてね、詮方なく、木刀でポカリ、紐で首根っこをキュウ、とやったわけでございます。立派ななりをしたおじいさんでした。

殺したときはまったく後先なんか考えずに、無我夢中で。ま、これが若さというものでしょう。ですが、自分でいうのもなんですが、根が素直ときている。3日目ぐらいからでしょうか、どうも夢見が悪い。

ああ、じいさん、すまないことをした、なんて柄にもなく悔やみ出したわけで。お恥ずかしい話、いっそのこと自首したら楽になるんじゃあ、だなんてヤケを起こしかけたこともありました。ですが、それじゃあ、じいさんも浮かばれまい、てな気もしてたんでございます。

どうもうまくお話しできないんですが、じいさんばっかりこんな目にあうのは、あんまりにも哀れ、とでも申しましょうか。ま、近頃みなさんがよくおっしゃる「誰それの死を無駄にするな」というのに近いのかもしれませんが、じいさんだけで終わらせてはいかん、そんな殊勝な心持ちになったわけで。

ええ、それからです、ひっきりなしに人殺しをやるようになったのは・・・・・・。

2010年8月3日火曜日

祈られて

牧師を名乗るその男はわたしの目の前に突然現れ、こう語った。

「わたしたちの教会では、哀れなあなたのためにひそかに祈り続けてまいりました。あなたが満ち足りて豊かな生活を送れるように、真心を込めて、朝も夜も、雨の日も雪の日も欠かさず、年末年始には夜を徹してまで、ひたすらに信徒一同心をひとつにして祈ってきたのです。

ですが、もう我慢できません。もう堪忍袋の緒が切れました。あなたはどうしてそうみすぼらしいままなのです? わたしたちがあなたが立派な服を着るようにひたすら祈ったというのに。あなたはどうしてそうショボくれたままなのです? あなたが喜びに溢れて暮らせるよう、神様に繰り返し繰り返し祈ってきたというのに。

これではわたしたちがあまりにもかわいそうです。わたしたちはみなあなたに失望しています。あなたはわたしたちの尊い祈りをすっかり無駄にしてしまったのです。ああ、こんな恩知らずにではなく、もっと他の貧乏人のために祈っていればよかった! これがわたしたち敬虔なる信徒の嘘偽りのない気持ちなのです。

わたしは、牧師として教会の善良な信徒たちのために、要求します。わたしたちがあなたのために祈った祈りをすべて耳を揃えてただちに返却してください、と!」

これこそがわたしの人生をめちゃくちゃにした「お祈りを返せ裁判」のはじまりだったのである。

2010年7月30日金曜日

愛を国す

おお、あの美しい国旗が壇上に掲げられるやいなや、ぼくはほかのどの生徒よりも早く起立した!

誰よりも胸を張り、背筋をピンと伸ばし! ぼくは優越感とともに愛国心に足りぬ同級生たちを見下ろす。だが、あいつはなんとしたことだ! 俺より首が伸びてやがる!

ぼくは負けじと首を伸ばす。頸椎が破壊されるその極みで踏みとどまり、ライバルをチラ見すると、なんとあいつめ、つま先立ちになった、体が異様に細くなった、頭蓋骨が平たくなった!

こうなりゃ奥の手だ。宙に浮かんでやった。起立の最上級というわけだ! するとあいつまでも、爪楊枝のようになったあのきざな野郎までも、浮遊しだしたではないか。

ついにおっ始まった。どちらが国を愛しているかの、最終決戦が、全校生徒の頭の上で。

ああ、だが、そのとき、愚かな争いにうつつを抜かすぼくらを尻目に、ぼくらの担任、心の先生、愛国心では誰ひとり並ぶもののいないあの尊敬すべき吉田先生は、体育館の床に頭までズッポリめり込んでいた・・・・・・。

2010年7月19日月曜日

ボヴァリー夫人

「ボヴァリー夫人は私だ」というのはフローベールの有名な言葉だが、批評家たちはこの言葉を珍重するいっぽう、作家がその後に続けて語った「オメー氏はお前だ」については故意に沈黙を守っているようにみえる。

2010年7月12日月曜日

夢と時間(2)

彼が私を連れてきた場所は、あたかも新宿駅のホームのようなところでした。ホームに引かれた白線沿いに男たちが一定の間隔で並ばされており、これらの男たちが少しでも線を越えようとすると、どこからともなく「白線の内側までお下がりください」と鋭い叱責の声が鳴り響くのでした。

やがて電車がやってきました。 その電車の先頭にはある数字が刻印されているのに私は気がつきました。

電車が停車すると、男たちは乗り込みました。その車両はちょうど男たちの数だけあり、つまり、一車両にひとりが乗ることとなったのでした。

各車両にはそれぞれ7匹の鬼どもがすでに乗車しており、男がやってくると即座に取り囲みました。それらの車両には、「鬼専用車両」と記されていました。

愚かな男は喜々としながらさっそく周囲の鬼たちの尻を触りはじめました。しかし、その邪悪な手が鬼たちの丸い臀部に触れるや否や、男は苦悶の叫びを上げました。男は絶叫しながら手を離します。ですが、すぐにまた別の尻をまさぐりはじめ、再び苦痛にのたうちまわるのでした。

というのも、鬼の尻はそれ自体が責苦の道具となっていたのです。

第一の鬼の尻には1万ボルトの高圧電流が流れていました。

第二の鬼の尻には、トリカブトの1億倍の猛毒が塗られていました。

第三の鬼の尻は鋭いガラスの破片が無数に埋め込まれており、触っただけで手がちぎれました。

第四の鬼の尻からは強烈な幻覚剤が分泌されており、ほんのわずかな分量で100年分の悪夢にうなされました。

第五の鬼の尻には針のような剛毛がびっしり生えており、触っただけで手が穴だらけとなりました。

第六の鬼の尻からは、ひと嗅ぎで鼻の全細胞を1万回も悶絶死させるに足る最悪の匂いが検出されました。

第七の鬼の尻は、第二の鬼の尻と第五の鬼の尻を合わせたよりもずっと強い苦痛をもたらしました。

男はどんなにひどい目にあおうとも、このすべての尻を何度も繰り返し触らずにはいられないのでした。やがて発射ベルが鳴り、ドアが閉まりました。そして電車は発車し、永遠にやって来ない次の停車駅に向かって旅立っていきました。

わたしは男たちが味わう永遠の業苦を思いながら叫びました。

「おお、これらの男たちはなんと愚かなのでしょうか。苦痛が待ち受けていると知りながら、お尻に手を伸ばすことをやめないとは!」

すると彼はわたしに次のようにいいました。

「痴漢は尻を裏切らない、尻も痴漢を裏切ってはならない。これはまことに真実である」

わたしはこの恐るべき言葉を聞いて、とんでもない訴訟に巻き込まれはしないか怖れました。

*ここに知恵が必要である。賢い人は、電車の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。そして、その数字は999である。

2010年7月6日火曜日

夢と時間(1)

さらにその後、わたしが目にした光景は、残虐であると同時にまったく奇々怪々なものなのでした。

巨大な毛虫が無数に蠢く中、両手を高々と掲げた裸の男たちが立ちすくんでおりました。毛虫たちは奇怪な叫び声を上げながら、男たちの足を這い上がり、ついには腰の辺りにまで達します。すると耐えきれなくなった男たちは手を下ろして、虫たちを払いのけようとするのですが、鬼たちが素早くやってきて、鬼が独自に強化した竹刀で腕や脇腹を激しく叩くのです。男たちは苦悶の叫びを上げながら、再び手を挙げざるをえないのでした。

つまり、男たちは手を下ろすことが許されないのであり、このようにして彼らは邪悪な毛虫に覆い尽くされ、少しずつ齧りとられ、最後には掲げられた手のみが残されるという案配なのでした。

「バンザイをしただけでこのような罰にあうとは恐ろしいことだ」とわたしが思うと、それを見透かしたかのように彼がいいました。

「これらの男たちは『満員電車では両手を上げています』などと言って、迷惑顔と被害者面を足して2で割ったようなご面相をしてみせたため、このような責苦を定められたのである」

「なるほど、痴漢を責めるどころか、被害に遭った女性を莫迦にするこうした連中の浅ましさといったら、まったく野方図きわまりないと申せましょう。ですが、かたやこうした男たちに罰を与えるいっぽう、痴漢たちを見逃したのでは、地獄の鬼とて女性に顔向けできるとは思わないのですが」

彼はわたしのこの言葉を聞くといった。

「では、来るがよい」

2010年6月28日月曜日

自己責任

その次にわたしが目にした光景は、まったく残虐きわまりないもので、「このようなものを見るくらいならば生まれなかったほうがまったくましに違いない」と、自らを呪ったほどでした。

それは、幾人もの男女が、鬼たちに金棒で突かれ、潰され、つみれのようにすり身にされている光景でした。これらの罪人たちは、どのように切り刻まれようとも、どれだけ小さなミンチの粒となろうとも、自意識を失わないため、どの肉体の破片も同じ分だけ痛みを味わうという具合なのでした。すなわち、むごたらしい苦痛がその当人にとってみれば幾千幾万倍にも増加しているわけなのです。

彼は重々しく告げました。

「これらの者どもは、自己責任論を振りかざして民衆を惑わしたために、死後このような目にあっているのだ」

わたしは安堵して思わずツイッターでつぶやきました。

「なるほど、これらの人々がこのような無限の責苦にあうのも自己責任であってみれば、こちらが同情する筋合いもないというものだて」

*散乱した人肉は責苦終了後、鬼たちがおいしくいただきました。

2010年6月21日月曜日

毅然とした算数を(2)

児童の算数を愛する心を涵養すべくわたしが提案する「数歌」および「数旗」は下記のようなものである。

我が国の教育関係者におかれては、これらの愛国的教材を学校においてよろしく活用し、日本のさらなる発展のために役立てていただきたいと念ずる次第。


「数歌」

《小学生向け》

君が代は
2000-1000代に6000+2000代に
さざれ石の
巌となりて
苔のむすまで


《中学生向け》
君が代は
x代にy代に(x+y=9000, 9x-y=1000)
さざれ石の
巌となりて
苔のむすまで


「数旗」

《小学生向け》


《中学生向け》

2010年6月14日月曜日

毅然とした算数を(1)

日本の子供たちの学力低下がとどまるところを知らない。

近年の国際的調査が明らかにしたところによれば、日本人の小学生の算数の学力は先進国中、ほぼ最低に近い水準であるという。

そもそも資源乏しい我が国にとって、技術革新を可能とする独創的、科学的精神の涵養が国の生命線であることはいうを俟たない。

ゆえに、あらゆる科学の母たる数学教育の崩壊はこれすなわち、国家の土台の崩壊といっても過言ではないのである。子どもたちをして数に親しませ、算数好きにするのが、何よりも急務といえよう。

近年多くの愛国者より確実な実績とともに提案されている画期的教育法は、児童の情動に毅然として働きかけることにより、愛国心を育むというものである。具体的には国歌と国旗の使用が関わり、あまたの成功例が伝えられている。

わたしは、日本の子供たちの数学的思考力を養うのに、この教育法以上にうってつけのものはないと考える。国旗と国歌で、愛国心が育つのならば、やはり算数に関する歌と旗で、子供たちに数を愛し、計算を喜ぶ心を育めぬことはあるまい。

2010年6月7日月曜日

救済

神さまを信じなさい。神さまがあなたとともにあることを喜びなさい。神さまがあなたをお選びになり、他の者の上に置いたことを喜びなさい。神さまだけがあなたを救ってくださる。

あなたを悪魔から守り、あらゆるよきものを与えてくれる神さまのために、あなたも自分のよきものを捧げなくてはなりません。

多くのものが神さまを信じるように、地上に神の栄光が打ち立てられるように、昼も夜も寝ずに働かなくてはなりません。

純潔でありなさい。汚れを遠ざけなさい。神の前では、あなたが清らかであることがわかるように一糸まとわず裸でいなさい。

これらすべてをひたむきに行えば、神さまは救いを与えてくださる。あなたが神さまのために働けば働くほど、あなたの救いの土台は強固になるのです。神さまだけがあなたを天国に導いてくださる。

*救済には個人差があります。

2010年5月31日月曜日

坂本龍馬

黒い岩山からは煮えたぎる溶岩の川が見えました。わたしは川の中で一艘の舟が灼熱の荒波に翻弄されているのに気がつきました。その舟はといえば燃え盛る炎に今にも飲み込まれそうです。

舟の中では、恰幅のよい男たちがなす術もなく火炎に焼かれているのでした。彼らは、あまりの暑さにしきりにのどの渇きを訴え、足下に転がる無数のはっさくに齧りついていました。しかし、それらの果物はすべて熱のためドライフルーツと化し、一滴だって果汁を搾ることもできないのでした。

彼らの絶望によって発せられた絶叫にわたしが耳を思わず塞ぐと、彼はいいました。「この男たちは、もともと政治家で、いい年をして坂本龍馬へのあこがれを表明するなどして、安易で見え透いたイメージアップを図ったがために、このような苦しみにあうこととなったのだ」

あらゆる罪を見逃さない地獄の緻密さにわたしは感嘆して叫びました。「おお、いかに超辛口純米酒《船中八策(日本酒度+8.0)》がよい酒だとしても、これらの罪人たちの渇きはとうてい癒せはしないでしょう!」

2010年5月29日土曜日

うんこが漏れそうなので

ただいま、便活中!

老眼

人生経験を深め、人間性に対する洞察力を身につけた者は、卑近にとらわれずに崇高を見上げ、些末にこだわらずに大局を見定めるようになる。これを称して慧眼と呼ぶ。わたしは日々の切磋琢磨の甲斐あってか、若輩者ながらついにこの慧眼を備えるに至った。とはいえ、夜の星を夢中になって観察して足下の穴に堕ちた哲学者タレスの例もある。英知に満ちた眼差しだけでは日常生活上思わぬ災難に出くわしかねないのだ。そこで、ちょうど近目の人が使用するような道具、いわゆる眼鏡が必要になるわけだが、近視用のこれがバカ高いのに引き換え、慧眼用の眼鏡はビックリするほど安価なのだ。高くて千円、探せば百円ショップでも 売っている。「慧眼の士でよかった!」と思える瞬間である。

殺人予告

近頃では、ネットで予告した上でなければ、殺した気にならないのです。この間なども、掲示板に書き忘れまして、殺害してから、「あっ、忘れてた!」なん て、まあ、とんだポカをしでかした次第でございます。まったくお恥ずかしい限りですが、そうなるとどうも達成感がないので、私的には、殺したうちには入れていません。ええ、もちろん、死んでますとも。殺しましたとも。ですが、これは私が犯した殺人ではない、ということでご理解をいただきたい、とこう思っているわけでございます。

一発ギャグ

ぼくたちはそいつを地べたに引き倒し、泥まみれにしてやった。棒で殴ってやろうとすると、そいつは頭を両腕で防御しながら「助けて」と叫んだ。まるで小さ な虫のようだったので、大笑いした。もう一度、振りかぶると、やはり同じように縮こまって、命乞いをした。ほんとに虫だ! ぼくたちは笑った。何度やっても虫だ! どれくらいそうやってそいつを怯えさせたことだろうか、どれだけ「助けて」と言わせたことだろうか。だけどしまいには飽きたので、頭を割って中身を噴出させてやった。

復活

「地球温暖化は最後の審判が近づいた証拠なのです。その理由をお話ししましょう。地球温暖化が進むと地上ばかりでなく、地下も暖まります。すなわち、地下に存在する事物も同時に暖められるわけなのですが、これには埋葬された遺体も含まれるのです。冷たい亡骸が暖められるとどうなるかというと、これはいわば活力を吹き込まれたという次第でして、まさしく復活の準備が整うといっても過言ではないのです。ですからわたしたちは、地球温暖化は、最後の審判における死者の復活の兆候であるとみなしています。さあ、祈りましょう!」

万死に値す

「魂は自らの成長のために生まれる前に、自分が果たすべき役割、自分が立ち向かう困難をあらかじめ決めておく・・・そのようにして幾度も生に挑戦し、経験を積み、魂としての強さと深みを獲得していくのだ」

「死んだ数だけ強くなれる、のですね!」

ヘッドフォン

次にわたしは、両耳にヘッドフォンをして音楽を聴いている一群の人々に出会いました。だが、やがてわたしが気がついたのは、ヘッドフォンと見えたものがそのじつ棘だらけの甲虫であり、これらの人々がその醜い虫に耳を齧られているのだということなのでした。彼らは耳から血を流しながら、苦悶のリズムを口ずさんでいました。恐れおののくわたしに向かって彼はこのようにいうのでした。

「これらの者どもは生前、電車の中で大きな音量で音楽を聴き、ヘッドフォンから漏れる音で周囲の人々に不快な思いをさせていたのだ」

「地獄でこんな目にあうくらいならば」とわたしは思わず叫びました。「5万円のインナーイヤー型ヘッドフォンも安いものだ! しかも、ポイントカードなら15%もポイントが還元されるときている。買わない手はあろうか!」

オイース

有事だよ、全員召集!

太陽光

そこでは年配のご婦人方が、激しく照りつける6つの太陽にじりじりと焼かれているのでした。彼女たちは苦悶にのたうち回り、聞くに堪えない恐ろしい叫び声をあげていました。わたしが震えていると、彼はいいました。

「これらの淑女たちは生前、日差しを激しく憎み、スカーフやら、つばの広い帽子やら、得体の知れぬクリームで肌を完全防御して、日焼けを無意味に怖がること、かえって見苦しいほどであったので、死後このような責苦にあっているのだ。」

「おお、多少のシワやシミを恥じたせいで、このような目にあうとは恐ろしいことだ。」とわたしは叫びました。

デカルトは

我思うゆえに我ありホトトギス。