2012年12月4日火曜日

無知の知

わたしが友人と2人で店で酒を飲んでいると、ひどく酔っぱらった男が1人やってきて友人に絡みはじめた。

わたしの友人は医者で、男はどうやらその患者らしかった。ろれつの回らぬ口で男は喚く。「あたしはね、ガンなんだろ、肝臓がやられてんだろ、もしかしたら肺だって、大腸だって! 隠したってこっちゃ、なんだってわかってんだぞ」

友人は穏やかな口調で否定した。そして男が言い返そうと喉を鳴らしているわずかな間にわたしをちらりと見た。その落ち着いた目つきは、彼がこの男の扱いに慣れていることをもの語っていた。おそらく病院でも男はたびたび同じような振る舞いに及んでいるのだろう。

「いいや、先生はあたしの病気を知ってて教えないんだ。いいですかい、そいつあ、人殺しですよ、ひ、と、ご、ろ、し!」

「ですがね、川名さん、前にも言った通り、検査の結果はなんでもなかったんですよ」

「検査なんか! あてになるもんか。あたしにゃはっきりわかるんだ。あたしのからだをおぞましいガン細胞が蝕んでんのを。もう、とことんまで行っちまった。病巣は破裂しちまった。明日にでも死んだっておかしくないんだ」

「もし、そんな状態だったら、とっくに自覚症状がでてるはずですよ」

「ああ、先生、まだわかんないんですか。自覚症状なんか当てになりゃしません。自覚症状がないから恐ろしいんじゃねえか。肝臓ガンに自覚症状なんかありますか? ありゃしませんや! なんつったて沈黙の臓器だから! 自覚症状がないのが肝臓ガンなんだ。だから、もし自覚症状がなければ、肝臓ガンをまず疑わなくちゃならん。先生、あたしはまったく自覚症状がないんだ、本当に驚くくらい! これは間違いなく肝臓がガンに侵されてるってことだ」

「でもね、あなたのね、その論法で行けば、この世のほとんどの人間が肝臓ガンということになってしまいますよ。だって、みんな自覚症状がないんですから」

この言葉は男を激高させたようだった。見る間に顔が真っ赤なった彼は拳をテーブルに振り下ろした。

「そいつぁ全然違う! あたしゃね、自覚症状がないことはちゃあんと自覚してるんだ! 自覚症状がないことも自覚できない連中と一緒にしないでくれっつーの!」 

男は急に喚き散らしはじめた。「先生、哲学を勉強しなさい、哲学を! 医学なんて! 学問の女王に比べれば! あたしはね、幾度もソクラテスの名を! まったく無知の知でさあ! これに尽きる! おおデルポイ! ダイモーン! おおそうじゃ、アスクレピオスにニワトリを捧げなくては! あやうく忘れるところだった! ニワトリ! ニワトリ!」

男は手を鳥のようにパタパタさせながら跳ね回った。テーブルとテーブルの間を飛び回った。コケコケと鋭い声で鳴き立てた。首を伸ばして目を剥いて、ひっきりなしに頭の向きを変えた。もうすっかりニワトリだ。口を尖らかしてテーブルの焼き鳥をついばむ。唐揚げを、軟骨揚げを、ゆで卵を。マヨネーズをひと舐め! わざとやってるんだ。底抜けのやんちゃぶりだった。

だが、見かねた店の主人がついに立ち上がった。主人は男の首根っこを鷲掴みにした。なんと男はたちまちおとなしくなる。夢から覚めたように辺りを見回した。あっけにとられてた。ニワトリが一斉に湖から飛び立ったみたい。男はフラフラと亡霊みたような足取りでわたしたちの目の前から立ち去った。

わたしはその後ろ姿を見ながら嘲弄した。「とんだバカだ!」

すると友人が「その病が一番自覚症状がない」と寂しそうに言った。

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