2013年7月28日日曜日

霊の名前(2)

この老神父から佐海のもとへ手紙が届いたのは四日ほど前のことだった。神への賛美と畏怖に彩られた古風な文体のその手紙から,彼は大学以来十年も音信不通だった友人が,最果ての修道院に寄留し,しかも死の瀬戸際にあるということを知った。神父は,椿が「この現し世の最後の望みとして」佐海にしきりに会いたがっていることを記し,同時にこれが修道院にとっても非常に厳粛な意味を持つことをほのめかしていた。佐海はこの非凡な友人が両親の不幸な死以来,天涯孤独の身であったことを思い出した。そして,彼が引き継いだ莫大な遺産が彼にどれだけ神秘的なオーラを与えていたかを。「今や椿陽一兄の命,旦夕に迫ろうとしております。兄のもっとも親昵なる友である貴兄の来訪を切にお待ちする次第。いと高き主の恵みとお守りが貴兄にあらんことを祈りつつ」と手紙は結ばれていた。

老神父は一刻も早く佐海を椿のもとへ連れて行きたいようだった。佐海は彼の促すままに広間を通り抜け,庭に面した拱廊を進んだ。手入れの行き届いた草花が激しい雨の予感に押し拉がれていた。

「それほど椿は悪いのですか」

老神父は声を顰めて答えた。「残念ながら……なにしろ猛烈な発作なのです。ただでさえ細い身体があれほどまでに……すっかり衰弱し切ってましてな,次の発作は持つまい,というのがお医者さまの意見で。本当に駆け付けてくださったのは,私ども,あ,つまり,あの方にとって大いなる喜び……」

「で,何の病気なのです」

「ああ! それが分からないのです。もっぱら精神的なものとの見立てでございます。なにしろ熱烈な信仰をお持ちの方で……それこそ命をすり減らすような非常な献身を続けられた結果かと。ですが,ここ数日は安らかな日々で,これがずっと続けば良いのですが……」

挟廊の奥の突き当たりには扉がいくつか並び,そのひとつを老神父はそっと叩いた。別の修道士が扉を開けると,老神父は優しい声で呼びかけた。「フレール・アントワーヌ(アントワーヌ兄)! あなたのお友達がいらっしゃいましたよ!」

彼は,庭に大きく開いた窓を背景にベッドに横たわっていた。まるで骸骨のようにやせ細っていはいるが,その繊細でくっきりとした横顔は紛れもなく彼のものだった。朦朧として目の焦点も合わない様子で,まるで羽毛か影のようにはかなげに見えた。

「椿! 来たぞ! 来たぞ!」 佐海は励ますように叫んだ。

その目にかすかな光がひらめき,灰色の顔を生気が波立てた。

「俺はお前がベッドにいるのを見れてうれしいよ! お前,大学の頃,寝ないのが自慢だったもんな!」

椿はあどけないほどの笑みを浮かべ,佐海をじっと見つめている。

「いつも本ばかり読んで,かと思うと議論,議論,議論だ。まったく寝る暇なんてありゃしない。俺はいつかこうなると思ってたぜ」

うれしそうに喉を鳴らす。

「ゆっくり休んで早く元気になることだな。しかし,俺は驚いたね,お前がキリスト教徒になったとは! ほら,あいつ,覚えているだろ,あのキリスト教徒の教授,そう飯島だ,お前,講義中にあいつに言ったこと覚えてるか,そりゃひどいこと言ったじゃねえか……」

まったく大学時代の思い出は尽きなかった。話しているうちに佐海は感傷的な喜びを感じたが,それは確かに椿に伝わっていた。ほとんど話すことができなかった彼が,いつしかため息に似た言葉で佐海の記憶を補ったり,訂正しようと試みていた。左翼の過激派が乗っ取った大学公認サークルを,椿が巧みな計略により奪還するという名高い冒険についてひとくさり話題にすると,佐海はやや改まった口調で尋ねた。「で,俺に何の用があるんだ。なんだってするぜ,それでお前が元気になるのなら」

たちまち椿の顔に赤みが差し,異様な光が目に宿った。彼は掛け布団から手を出し,うめきながら老神父を指差す……それまで黙って見守っていたその人は飛び上がらんばかりに驚き,ベッドに駆け寄った。「おお,フレール・アントワーヌ,大丈夫ですとも,私からきちんとお話しします」 やさしく椿の手を握る。「少しお休みいたしましょう。お体に触るといけませんから。佐海さんにはちゃんと話しますとも」

「そうそう,少し休んだほうがいい。安心しな。俺はまた後で来るよ」

佐海がそう告げると椿は幼児のように目を閉じ,まどろみはじめた。短い面会は友人をひどく疲弊させたようだった。邪気のないその寝顔を佐海は痛ましい気持ちで見つめた。

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