2010年8月28日土曜日

エクリチュール

「まつたくなんてことをするのだ。かわいさうぢゃないか」

すっかりホカホカになって脱衣場を出るやいなや、男がそう怒鳴ったのが聞こえた。わたしはのれんをくぐり、入り口のカウンターを通り過ぎようとした。

男はカウンターの中の従業員を睨みつけていた。彼の髪はわたしのと同じく濡れていたが、温泉内で彼を見かけた記憶はなかった。

「君、あれを読んでみたまへ」

彼は壁の張り紙を指差した。そこには「刺青の方は入浴は固くお断りします」と書かれていた。

「嗚呼! 君が不注意だったばっかりに、渠はとんだ晒し者になつてしまつた!」

従業員の年配の女性はまったく困惑しきっていて、男がカウンターを両手で叩いて叫ぶと、怯えた表情を浮かべた。「どうしたらよいだらう! 此は渠の名誉の問題なのだ。君はすつかり渠を破滅させてしまつた!」

そのとき、日焼けしたいかつい男がのれんをくぐって出てきた。わたしは彼が刺青を入れた裸体を念入りに洗っていたのを浴場で見ていた。

怒れる男はこの刺青男を見るや表情を和らげ、声をかけた。「大丈夫かね? 僕は君のことが心配でたまらなかつたんです!」

そして、再び従業員のほうを向き、刺青男を手で指し示しながらいった。

「君が此のお方に刺青をした人は入浴をしてはいけないということをちやんと教えなかつたから、此の人は知らずにそのまま入つてしまつたのだ。全身にびっしり描かれた陳腐なサンボリスムを丸出しにして! 龍だの鯉だの牡丹だの桜だのの見かけ倒しの幻覚をさらけ出して! 肉体による無知蒙昧な原始的な信仰告白を垂れ流して! わたしはもう見てられなかつた。だって、かわいさうじゃないか。 哀れぢゃないか。いいかね、きみはこの哀れで、すでに身に辱め受けた人間にさらなる侮辱を与へたのだ!」

刺青男が威圧感たっぷりに男のほうに近付いてきた。男は振り向いて任せろとばかりにいった。「大丈夫、大丈夫、安心したまへ。ここは僕が何とかするから!」

だが、その言葉が終わらぬうちに、男の血が件の張り紙の上にまで飛び散った。

0 件のコメント:

コメントを投稿