2010年9月20日月曜日

吸いたがり

「タバコを吸っているまさにその時に、こんな風に思ったことはありませんか?」と彼。「ああ、タバコが吸いたい、と。あたかも自分がタバコなど口にしていないかのように。これぞ悲喜劇というものです」

「そして」とぼくは続けた。「それが依存というものです」

「ええ、その通り。直ちに治療が、通院が、パッチが必要、というわけです。ですが、物事にはさまざまな見方があります。わたしはこう考えたのでした。わたしが吸っているタバコは、実は偽物で、本当のタバコではないからそう感じるのだ、と。そして、その本物こそが、どんなに吸っても癒されぬ空虚な気持ち、まさに吸っているその時に感じられる満たされぬ思いを解消してくれるのだ、と」

「そのように考えて麻薬に手を出す人もいます」とぼくがいうと、彼は「まさか、わたしが」と笑った。

「そんなものには手を出しませんよ。それにたとえ手を出しても、同じ虚無感を味わうのがオチだということも承知しているつもりです。きっと「本物の麻薬」が欲しくなって世界を旅するハメになることでしょう。あなたのいうように依存とみなす限りは、それは不可避です。ですが、わたしは純然たる意思の力でこれを乗り越えたのでした」

「頑張って禁煙した、とおっしゃるのですか?」

「禁煙など! わたしは今でも愛煙家ですよ」 実に愉快そうな口ぶりだった。

「わたしの出発点は、実在するいかなるタバコもわたしを満たしはしないということでした。いや、こう言い換えたらいいかもしれません。タバコの実在性こそが、わたしの虚無感の原因であったのです。ところで、君はプラトンを読んだことはありますか? エロースについて聞いたことは?」

ぼくは当惑して答えた。「いきなり下ネタですか?」

「君には別の話し方をしましょう。要するにわたしは、超越的な思念の力によって非存在のタバコに到達したのです。実在するタバコで満足できないのなら、存在しないタバコならどうだろう、と考えたわけです。いわば発想の転換ですね。そして、効果はてきめんでした。このタバコは、わたしに完璧な満足を与えてくれます」

「お言葉ですが、存在しないものを吸うなんて、荒唐無稽ではありませんか?」

「さにあらず! 実在するタバコを吸う時、脳はこの実在するタバコ以外のタバコを激しく欲求します。このことについてはすでにお話ししましたね。では、この脳の欲求に非存在のタバコを与えてみましょう。するとこの非存在のタバコは、非存在のままに脳の欲求を満たすのですが、同時に脳の欲求において、非存在のタバコは存在するものとなるのです。なぜならわたしたちは実在しないものによっては、満たされないのですから。わたしは、この非実在のタバコの銘柄を『イデア』 と名付けました」

ぼくは彼の知恵に感嘆した。「ああ、ひょっとすると、欲望を満たすその実在性こそが、ぼくたちの依存している当のものなのではないでしょうか」

「まさにそうなのです。ですがこの本質的依存症についてはまたいつかお話ししましょう」

彼はそう語り終えると、長く長く息を吐いた。そして、あたかも見えない紫煙を追うかのように、視線を宙に漂わせた。

「ああ、もうすでに吸ってらっしゃるのですね。その『イデア』と呼ばれるタバコを」

「ええ、ですが健康のことを考えて、現在は『イデア・スーパーライト』にしています」

0 件のコメント:

コメントを投稿